【訪問日】 2011/10/8 砺波、高岡ドライブの際に、立ち寄る。 あまり下調べせずに行ったので、これほど立派な寺院だとは知らずびっくり。 更に前田家と深い関わりがあったいうことを知って更にびっくり! (この寺の住職が加賀藩主になっていた!) お寺ですが、城郭の雰囲気があり、結構気に入りました。 残念ながら、修復工事中で半分くらいしか見れなかったのですが、 平成30年までかかるという工事の完成が楽しみです。 | |
【略歴】 通称:古国府城、如意城城郭構造:平城 築城主:神保氏張か 築城年:天正年間(1573年 - 1591年)以前 主な城主:神保氏張 廃城年:天正12年(1584年) 遺構:土塁、空堀 伏木港を見下ろす、やや高台となっている場所に築かれた平城。 西約4kmに在った越中守山城の出城として、伏木港を押さえる役割を持っていたと考えられている。 城跡には名刹勝興寺が建っており、城域は勝興寺の寺域全体に及ぶとされているがそれ以上である可能性も有る。 寺の周囲を囲む大きな土塁や空堀は古国府城のものであるとされている。 2007年には主郭の堀の北側に別の堀、腰曲輪が発見されている。 名前の由来は、その名の通り越中国府跡であった。 天正年間、守山城主・神保氏張によって築かれたと言われているが、それ以前から存在した可能性もある。 天正9年(1581年)4月、越中木舟城主・石黒成綱によって越中安養寺御坊(勝興寺)が焼き討ちされ、焼亡。 天正11年(1583年)、佐々成政が越中平定。氏張も平定に尽力し成政の配下に名を連ねる。 天正12年(1584年)、成政が豊臣秀吉と敵対姿勢を強め、隣国の前田利家との争いも激しさを増す。 成政は越中一向一揆勢力を味方に付ける為に古国府城の一円を勝興寺に寄進し、移設(再建)された。 これにより古国府城は事実上廃城したと言える。 天正13年(1585年)、富山の役。 成政は降伏して前田家の所領となるも勝興寺は手厚い保護を受けた。 以降幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となる。 現在は跡地に勝興寺が建つ。土塁に古国府城の面影を微かに感じる事は出来るが、 城郭伽藍としての色合いも残っており(隅櫓そのままといった趣きの太鼓堂など)、 全国でもトップクラスの大きさを誇る本堂を始め重要文化財に指定されている。 | |
「鼓堂」 一番城郭らしい建物。 手前には空掘りと石垣が残る。 (いつの時代のものか不明だが) | |
別角度で。 | |
「唐門」(国重文) 立派です! | |
唐門の門扉に彫られた 見事な彫刻。 | |
鼓堂と観音様。 | |
本堂。 でけぇ! | |
経堂。 | |
本堂を下から見上げる。 ちなみに写真中央付近の屋根の下に 勝興寺七不思議のひとつ、 「屋根を支える猿」がいます。 | |
梁部分に彫られた狛犬。 肉球が可愛い!(^^; | |
本堂内に展示されている籠。 勝興寺の住職から環俗して、加賀藩第十一代藩主となった前田治脩(はるなが)がこの寺に来た際に乗って来た籠。 |