【福井城の略歴】 織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと 記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。
柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏・北ノ庄城」の跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に 築城または改築を受けた「結城氏・北ノ庄城(後に福井城に改名)」が、現在見られる福井城の遺構である。
1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より築城を開始する。 1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、 全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。 完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、 以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。 (幕府から再建の許可が下りなかったとの説あり。) 1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が不吉であるとして「北ノ庄」のから「福居」に改名され、 さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)
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| 福井城は現在、城内に県庁、県警本部、 議事堂の官庁が入ってます。
でもこの立派なお堀と石垣は健在!
石垣と近代的なビルのアンマッチ感が 見事(!?)で不思議な眺めです。
今も昔の政治の中心ですね!(^^ |
| 城内の「結城秀康」像。 福井初代藩主です。
徳川家康の次男。長男が亡くなった為、 (信長の命により自害させられる) 本来次期将軍となれるポジションだったが、 生い立ち(母親が側室)から家康に嫌われ、 将軍の座は3男、秀忠に譲られた悲劇の武将。 豊臣秀吉の元に養子に出され、そこから 結城家の養子となった。 その後、関ヶ原の戦いまでに軍功を残し、 戦後は越前に67万石の領地を与えられ、 福井藩主・松平家の祖となった。 しかし、梅毒により34歳の若さで 亡くなっている。(無念!)
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| 福井城址 散策路から見た 「御本城橋」方面。
石垣の上に登って街並みを眺望できる ようになっていました。 |
| 城の他のところも見て回りたかったの ですが、腹が減って戦が出来ない状態 だったので、とりあえずメシへ!(^^;
福井といえば、そう「ソースかつ丼」です!
いつもは元祖の「ヨーロッパ軒」へ行くの ですが、今日は「吉ちょう」というお店へ。 県庁前の放送会館のB1Fにあります。
←オイラが注文したマヨカツ丼! うどん or そばが選べて800円とお得!
味は、ソースかつ丼+マヨネーズでした!(^^; |
| 再び福井城へ!
城の西側にかかる「御廊下橋」
築城400年を機に、平成20年に 復元されたばかり!
中はヒノキ+障子が貼ってあり、 とても橋とは思えないキレイな造りと なっていました。 (真新し過ぎて、今のところちょっと 不自然・・・;) |
| 福井城天守台跡。
立派な石垣が健在!
しかし、昭和23年の福井大震災で 崩れてしまったようで、あえて崩れたまま 残してある石垣が天守台の上にありました。
築城時は4層5階、高さ28mの壮大な 天守が建っていたとの事。 しかし、1669年の大火で焼失し、 その後再建されることは無かったようです。 |
| 「福井」の名前の由来と言われる、 「福の井」と呼ばれる井戸。
中には今でも水が溜まっていました。
元々は柴田勝家の「北ノ庄城」を大改築 していましたが、北は「敗北」につながり 縁起が悪いとして、3代藩主・松平忠昌の 時に「福居」と改名。 そして「福井」となりました。 この井戸の名前に因んだものと言われて います。 |
| 1948年6月の福井震災の爪痕が残る 控え天守台跡。
あえて崩壊したまま残してあるようです。 |
| 福井市立郷土歴史博物館の裏に 復原整備されている 「福井城舎人門遺構」。
かなり立派なものでした! (「舎人門」は「とねりもん」と呼ぶみたい。)
博物館の中では、福井の歴史が学べます。 まずは縄文式土器から・・・ (そこからかい!(^^;)
福井城、九十九橋の復元模型や、 柴田勝家、お市の方、結城秀康に ついても学べ、結構面白かったです! |