ダシオの館

丸岡城


【訪問日】 2009/10/19

今日は、有休を頂き、福井へ旅に行ってまいりました!
メインは福井城ですが、まずは行き道にある丸岡城へ・・・。
昨年、5月に一度来ているのですが、百名城のスタンプを押していなかったので、
今回再登城したわけです!

【丸岡城の略歴】

1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、
勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
1582年(天正10年) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。
代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、
長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、
関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。
越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が
2万6千石を与えられ入城した。
1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。
幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重[1]が4万3千石で新たな城主となった。
1624年(寛永元年) 福井藩二代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、
福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。
代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。

1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。
1901年(明治34年) 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となった。
本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。
1934年(昭和9年) 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。
1948年(昭和23年) 福井地震のために倒壊。
1950年(昭和25年) 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される。
1955年(昭和30年) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。

全国にある現存12天守の一つで、北陸地方では丸岡城の天守のみが現存している。
現存12天守の中で最古と言われているが、犬山城天守との論争がある。
柴田勝豊の建造である場合、1576年(天正4年)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることが
できるとして、1596年(慶長元年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もある。
さすがに平日なので、駐車場は
ガラガラ・・・。
(真ん中がガブリエルの愛車・インプくん)
前回は下のツツジ(?)が咲いていたのですが、
今回は左の木が微妙に紅葉している程度。
城の四季を見るには中途半端な時期に
来ちゃいましたね(^^;

今回は、天守1階の大きな破風や、
3階の白木むき出しの柱、そして
全て石瓦で葺かれた屋根瓦など、
見るべきポイントを押さえて観賞できました!
(前回はちょっと勉強不足だった・・・)
天守に登る石段。
全て石瓦で葺かれた屋根瓦。
天守最上部のアップ。

3階の白木むき出しの柱。
天守内の階段は急です。

階段と言うより、むしろハシゴ。
ロープを伝って登ります(^^;
天守最上階からの眺め。

ここで新デジカメの10倍ズーム機能の
威力を検証!

←まずはワイド端(等倍)。

写真が小さくて分かりにくいですが、
赤丸付近をズームしていくと・・・
←これがテレ端(10倍ズーム)!

ここまで寄ることが出来ました!

(注:デジタルズームやトリミングは
してません。純粋に光学10倍ズームのみ
です!)

なかなかスゴイ!

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