【訪問日】 2010/3/20 SAで休憩しながらのんびりと昼過ぎに松本城に到着! 3連休ということで、人混みが心配されましたが、さほどでもなく、一安心! 天気もバッチリです! | |
【松本城 略歴】 戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中(井川)に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。 後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として 松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の1582年(天正10年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が 旧領を回復し、松本城に改名した。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主 小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、 城郭・城下町の整備を行う。 その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。 大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。 水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。 1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。 明治維新後、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、 市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。 明治30年代ころより天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学校長小林有也らにより、 天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年))まで「明治の大修理」が おこなわれた。 1930年(昭和5年) 国の史跡に指定された。 1936年(昭和11年)4月20日には天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により 当時の国宝に指定され、1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて 国宝に指定されている。 1950年(昭和25年)より1955年(昭和30年)まで解体復元工事(「昭和の大修理」)。 | |
←太鼓門桝形 大手門から入ったので、一旦太鼓門から 外へ出て撮影!(^^; | |
黒門桝形の料金所でお金を払って、 本丸内部へ! これが国宝・松本城の天守群! (右から乾小天守、天守、辰巳櫓、月見櫓) 黒漆を外壁に塗る「黒く輝く城」です! 手前は本丸御殿跡になります。 ちなみに百名城スタンプは売店横の事務所 入口にあります。そう、お金を払って中に 入らないと押せないのです!(^^; | |
天守内部には鉄砲、鎧など いろいろな資料が展示されていました。 内部はそこそこの観光客がいて、 急な階段(最大斜度61度!)があることも あり、人の流れが悪くなります。 時々渋滞で列が進まなくなりますが、 このような展示物があると暇つぶしになって いいですね! | |
天守最上階(6階)からの眺め。 埋の橋方向を望む。 素晴らしい眺めです! | |
自分が松本城を好きな理由のひとつが この石落とし。 これが張りだしている事で、安定感と 威圧感を与えていると思います。 ガンダムのドムみたいな感じ?(^^ | |
先ほど最上階から見下ろしていた 埋の橋対岸からの眺め。 赤の橋と黒の城のコントラストが素晴らしい! | |
内堀前からの眺め。 よく使われるアングルですね! 軍艦みたいでかっこいいです! しばらくここに座って眺めていました(^^; | |
珍しいのがこの月見櫓。 連結式では松本城だけだそうな。 最初は天守と乾小天守だけで、 後から月見櫓と辰巳櫓が作られたそうです。 戦国の世が終ってから作られたので、 このように無防備な施設が作れたのですね。 逆に天守や乾小天守は鉄砲狭間、 矢狭間、石落としなどの数が半端なく、 また、壁もかなりの厚さで頑丈に作られて いるようです。でも一度も戦場になることは なかったとか。 | |
夜、再び松本城へ! ライトアップされてるかと期待して行ったんですが、 自由に入れる二の丸のライトアップは 終わっており、夜間立ち入り禁止の本丸内から うっすら光が射している程度でした。 残念! でも、ほんのり見える松本城も趣きがある?(^^; | |
昼間寄れなかった、松本神社。 城のすぐ北にあります。 ときの松本城主、戸田康長に嫁いた徳川家康の妹、松姫が祀られています。 そのため、戸田家と徳川家の両方の家紋が描かれています。 |